絶望
今日の社会学の授業は、障害について でした。
ためになる授業ってこーゆーことだと思いました。
「あなたに、もれなく一つ『障害』をあげます。どんな『障害』がいいですか?」
「どんな『障害』もほしくない。その思いを否定しません。制約なく生きたいと願う時の自然な感情だと思うからです。」
「けれど、だから『障害児』もその家族も不幸だと言われれば、否定します。」
「そこには、『幸福』と『不幸』を並べて、『ここから先が幸福』と決めつける『想像力の欠如』を感じるからです。」
「『かわいそう』と思う、その感受性を潰してはだめ。しかし、そう思うことで『相手が傷つくかもしれないこと』については悩んでください。どうしたらいいか悩んでください。」
授業で配られたプリントにはこう書いてありました。
先日見ました、爆笑問題の番組で、生まれつき全盲の大学教授は、言っていました。
「絶望=苦悩-意味」
移項すれば、
「絶望+意味=苦悩」
絶望にも意味が伴えば苦悩となる。
ただ落胆する絶望を感じるなら、無くした意味を移項する。
絶望は苦悩になる。
望みは絶たれない。
メメントモリにはこう書いてあります。
「つかみどころのない懈慢な日々を送っている正常なひとよりも、それなりの効力意識に目覚めている痴呆者の方が、この世の生命存在としてはずっと美しい。」
・懈慢(けまん)…なまけて事をなおざりにすること。
とあります。
筆者の藤原新也さんは後者を選ぶらしいです。
いろいろ知って考えて悩んで分からなくて…ニンゲンは成長していくのかもしれません。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
最近のコメント